2018年11月04日

第6回ライフプロデュース」研究会 報告      庄司信明

 10月26日 18:30~21:00 内幸町 日本プレスセンター内、日本記者クラブ9階ラウンジにて、第6回目のテーマは、「人生、思い出の○○」と題して、各自が思い思いのヒト、モノ、食べ物の味などを語った。「ヒト」を挙げたのは2人。小平陽一さんは、大学時代、卒業研究のためにお世話になった物理化学者でのちに東大名誉教授となる玉蟲文一先生との出会いを、私は福岡での単身赴任時代に出会ったサーカス団のピエロの話をした。
 三橋建一さんと中村昌子さんは「モノ」の話。三橋さんは、52年も肌身離さずつけているオメガ製の腕時計。それは妻へプレゼントした婚約指輪のお返しとしてもらった品だった。中村さんはキャビンアテンダント時代にNYの玩具店「FAOシュワルツ」で出会う憧れのバービー人形の話。幼い少女時代は、欲しくても手に入らなかったほろ苦い思い出。やっと手にしたバービーは今でも部屋の机の上で微笑みを送り続けてくれている。
 「食べ物の味」を語ったのは、皆川靱一さんと寺本眞子さん。皆川さんは小学校低学年のころに頬張った「1本のバナナ」。初めて口にしたその甘み、柔らかな歯ごたえは忘れられず、今でも一日1本は欠かせない大好物になったという。寺本さんは、小学3年生の時、習いごとで通っていたフランス語の先生が焼いてくれたという「パウンドケーキ」。このほのかな甘みが口の中でとろけたのは忘れがたく、「いつか私もケーキの焼けるお母さんになろう」と決意。それから何十年が過ぎ、2人の息子の母親に。毎晩、毎晩、夜中まで失敗を繰り返しては焼き続け、やっと息子たちが「おいしい」といってくれるまでになる。そして今では、「おふくろの味ってある?」と息子たちに問いかけると「パウンドケーキとシフォンケーキかな」と答えてくれるのが、なんともうれしい。
 最後に若井泰樹さんは、あるゴルフ場でのこと。およそ40年前、当時は彼女だった妻とプロゴルフツアーの観戦デート。ギャラリーとして場内を歩いているとなんとそこへ当時のトッププロ・青木功の放ったティーショットが飛んできた。「危ない」と思った若井さんは、とっさに彼女を押し倒し、さらにその上へ覆いかぶさった。ボールは5mぐらい先に落ち、無事難を逃れた。それからしばらくたって若井さんは彼女にプロポース。彼女の返事はこうだった。「ゴルフ場でとっさにあなたが私の上に覆いかぶさってくれた時、この人ならきっと一生自分を大切に守ってくれるって、強く感じました」
 詳細のレポートは下記の通りです。

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「生涯を虜にした1本のバナナの味」
                                
 皆川靱一


 わが皆川家の黄ばんで古びたボロボロの写真帳の2ページ目に、皮をむいたバナナを右手に持ち、得意げにほおばる寸前の私の写真がある。父の達者な毛筆で「昭和26年春、靱一初めてバナナを食す」とある。小学1、2年生のガキの頃だ。終戦後の闇市・混乱期に初めて見て、口にしたその甘み、柔らかな歯ごたえにしびれ結局、生涯今でも一日1本は欠かせない大好物になった。

 わが故郷、茨城県日立市は日立製作所、日本鉱業を擁する東日本一の大工業都市だ。それだけに、米軍のB29爆撃機による爆弾攻撃、沿岸沖まで接近した戦艦からの大規模な艦砲射撃で、工場労働者を主に万にも達する犠牲者が出たようだ。やがて凱旋上陸した米兵たちは誇らしげにジープで走り回り、私ら薄汚い格好で追い掛け回す子ども達は「ギブミー・チューインガム、チョコレート」を連呼する。幸運にも両手で受け取ったガムやチョコレートの異国の味は、とにかく未知の旨さがあった。大満足し、たらふく食べ、噛んだ!当然、未知との遭遇に狂喜乱舞した記憶がある。
 一方、父親によればこんなに危険で恐怖の戦争・戦場体験が、約2歳児の私にもあったと再三聞かされた。爆弾攻撃が集中していたというある日、視界が悪いから空襲はないだろうと、庭の防空壕を出て父親に抱っこされている時に「前方45度の角度でB29から爆撃を受け、二人とももうダメだと思った」と恐怖感をにじませて何度も語ってくれた父。私を抱いて再び防空壕に飛び込んで間一髪、被弾を免れた。「2歳だったお前は、覚えてないか?」まさか、そんな恐怖の記憶はないが、まさに間一髪!運が悪ければ幼児の私は父親ともども“爆撃死”しかねない、危険な状態にあったのだ。

 さて、小学校低学年の混乱期に家人が、貴重品のバナナをどこで、どう入手したかは不明だが、恐らく祖父母が初孫のためにツテを頼って手に入れてくれたものと思う。結果的に、あの1本のバナナの味に魅了され、それをきっかけに「口がバナナを求めている」と形容してもいいように、爆撃死を免れて後期高齢者の今日に至るまで私の人生思い出の食品は、あの終戦後の混乱期に味わったバナナに尽きる。大量にはいらない。ずっと一日1本を守り、十分に満足している。が、反面、このバナナ体験が私に、安倍内閣の憲法改正反対、反原発への道に強く向かわせてくれた原点であるのも、事実である。

                                                 「パウンドケーキの思い出」
                          
 寺本眞子

今でも鮮明に覚えているのは、小学校3年生の時 週一回習い事で通っていたフランス語の先生が焼いて下さったパウンドケーキの味です。
フランス語の先生はとてもエレガントな女性でお宅は素敵なインテリアだったことを覚えています。いつも先生は私がお宅に伺うと おやつに焼き立てのパウンドケーキと紅茶を用意していて下さいました。幼いながらも なんて優雅な世界なんのだろうといつも思っていました。ほのかな甘みが口の中でとろけたのを今でも忘れられません。子供ながらに もっと頂きたくて『お替り下さい』と言いたい気持ちを必死に抑えたのを覚えています。その時 私は無意識に 『あ〜 私がお母さんになったら ケーキを焼いて待っていてあげるんだ〜』と思っていました。
 あれから何十年かが過ぎ 本当に二人の息子の母親になった時 『そうだ! ケーキが焼けるようになろう』と思いつき 毎晩毎晩パウンドケーキを焼いて やっと子供たちが美味しいと言ってくれるケーキを焼けるようになりました。
 大人になった息子たちに 『おふくろの味ってある?』と聞いた時 二人とも『パウンドケーキとシフォンケーキかな〜』と言っていました。
 私が小学生の時に感動を受けたパウンドケーキの味が 次世代に引き継がれたのだなと感じたひと時でした。
 フランス語の先生のようなエレガントな女性にはなれませんでしたが、ケーキを焼ける人にして頂けたことに感謝しています。
パウンドケーキ.jpg
 シフォンケーキ.jpg



「玉蟲先生との出会い〜そして仙台の炉端焼き」
小平陽一


大学4年の時、1972年から1年間卒業研究のために武蔵大学根津化学研究所にお世話になった。指導教官は、物理化学の分野では著名な玉蟲文一先生と、伊能敬教授のお二人、そこに研究生は僕一人という贅沢な環境だった。
大学時代は、学園紛争の嵐が吹きまくっていた。70年安保、べ平連のデモ、学園のロックアウトなど、デモとバイトには行ったが、ろくに勉強などしなかった。しかし、4年ともなれば、就職が目前に迫る。それまで米帝国主義打倒、産学協同反対などと叫んでいた級友たちは、長い髪を切り、ジーパンをスーツに着替え、大企業への就職を決めて、暗にその会社の規模を競っていた。その変わりようは、当時流行っていた「いちご白書をもういちど」の歌詞そのものだった。大学の在り方を批判し、教授たちを糾弾し、その彼らも、各研究室にあっさり入って行った。ぼやぼやしていた僕は、もやもやしていた気持ちを抱えながら、学外の研究施設に身を置くことにした。そこは、文系の大学にありながら、世間を避け、時が止まったようにひっそりとたたずむ化学研究所だった。
玉蟲先生は、すでに現役を終え(70代後半)、古巣のこの研究所に戻って昔やりかけた研究を細々続けていた。大学での講義のある日、いつも大学正門前のバス停から研究所までを歩いてこられる。中折れ帽をかぶり、ステッキを突きながらゆっくりゆっくりと。その姿は、まるで映画に出てくる英国紳士のような品格を漂わせていた。権威を厭い、在野に身を置き、研究には真摯を貫く研究者だった。一方の伊能先生は、研究所の実質運営を担っていた。伊能先生は玉蟲先生の旧制武蔵高校時代の教え子だった。
奇しくもこのお二人、歴史上の人物に縁があった。玉蟲先生の曽祖父は幕末の仙台藩筆頭家老玉蟲左大夫で、戊辰戦争の際、官軍に抵抗した奥羽列藩同盟の中心人物であり、その責任を問われて切腹した。そのため、逆賊の汚名の中で育った先生は、幼少期には生きてゆくための芸として三味線を習わされたと述懐する。そのせいか、玉蟲先生は反骨の人でもあった。一方の伊能先生は伊能忠敬から7代目の当主だった。
僕はこのお二人の先生にマンツーマンで指導を受けた。とくに、玉蟲先生には共同研究者として接してもらい、研究を議論しながら、世間からは隔絶されたようなこの研究所で1年間、卒業研究に没頭した。人間不信はいつしか癒され、尊敬できる先生に出会い、学び、人生の中で最も充実した時を過ごしていた。やっと僕は胸を張って前を歩くことができるようになった。
ある時、仙台で学会があった。学会の後、老先生に連れられ、市内の炉端焼きの店に案内された。ここは先生の故郷、皆を先導して馴染みの店に入る。店の中心に囲炉裏があり、店主が正面に座し、客はその炉端に囲むように座る。大きくて長いしゃもじのような道具で、正面の店主が料理と酒を客に提供する。老先生の思い出話を聞きながら、この店の自慢の料理と酒をご馳走になった。この時、老先生はいつになく饒舌で、上機嫌だった。


「人生、思い出のピエロ」
庄司信明


【2000年秋、福岡で観た「シルクド・ソレイユ」の公演。それ以来、ますますピエロを追い続ける】

 福岡に単身赴任中、友人の画家・岡部文明氏に誘われて、初めて「シルクド・ソレイユ」の舞台を見に行った。岡部氏はそれまで500人以上のピエロに実際に会い、その姿をキャンバスに描いてきた「ピエロの画家」として活躍されていた人である。
 公演後、なんとその岡部氏が自分のアトリエにピエロのビンセントさんをはじめメンバーたち数十人を招き、パーティーを開いた。私もその場に同席し、ビンセントさんらと話をすることができた。
 私はそれまで、特にサーカースにもピエロにもさほど興味をいだいていなかったが、友人である岡部氏が、なぜそんなにピエロに魅せられ、ピエロを描き続けているのかに、ずっと関心を持ち続けていた。
 何人かのピエロを観察しているうちに、なんとなくではあったが、そのピエロの持つ魅力がわかった日でもあった。岡部氏が言う。「ピエロには年齢も性別もない。ましてや人種や宗教なんかとも関係ない。ただただ、人を幸せにしてくれるんだよ」
それ以来、私はいつしか「BOKABE」(岡部氏のピエロネーム)という存在を追い続けるようになっていった。
ピエロを描き続ける岡部文明さん↓
ピエロを描き続ける岡部文明さん.JPG





 「思いでのウオッチ」
三橋建一


私の左腕に風呂に入っているとき以外にいつも付きまとっているのがオメガ製の腕時計である。もう今日までに半世紀過ぎている。出掛ける時も必ずいつも肌身離さず一緒である。遅れることもなく、進むこともなく、ましてや止まったこともない。
 彼女へプレゼントしたトパーズの指輪のお返しとして貰った品である。
心というものは、自分の年齢が進むにつれて変わっていくもののように思え。初心とはどこかに吹っ飛んでしまうこともあるが、この機械装置は忠実に初心を維持している。
ありがたいことである。
 人生100年時代を目指そうと安倍首相は声高に唱えている。100年といわず、私の寿命が命が尽きるまでは、このオメガ氏は時を刻み続けてほしいと願っているのである。


「バービー人形とNY老舗の玩具店 FAOシュワルツ」
中村昌子

1862年創業の老舗玩具店、FAOシュワルツ(FAO Schwarz)が、ロックフェラープラザ(Rockefeller Plaza)に新店舗をオープンするというホットなNewsが届いた。https://faoschwarz.com/ FAOは、2015年に有名な5番街の店舗を閉店していた。
前職でNY線を担当していた時期、必ず此処を訪れた。視界一杯にあらゆるジャンルのおもちゃが広がるワンダーランド。トム・ハンクス主演映画「ビッグ」や「ホームアローン2」の舞台になったことでも有名な高級老舗玩具店―。入口は玩具店というより博物館の佇まいだった。私のお気に入りは、当時、最上階奥にあった、「バービー・コーナー」だった。そのコレクションは素晴らしく、「バービー人形博物館」とも言える程だった。歴代の貴重なバービーがずらりと並んでいる。ウェディングドレス姿、バレリーナ、フラメンコダンサーなど、華麗な衣装を纏ったバービー人形や、それぞれの時代に流行ったファッションのバービー人形は勿論のこと、流石、ニューヨークらしく、ブロードウェイ・ミュージカルの主役の衣装を纏ったバービーたち。その他、クレオパトラやジャンヌ・ダルクなど歴史上の人物など、常時100体以上のバービー人形がところ狭しと陳列されていた。此処を訪れるたびに、少女時代の憧れが蘇りしばし時を忘れた....。
 バービー人形は、アメリカの玩具メーカー、マテル社が販売する30cmサイズの着せ替え人形、バービー人形が日本に上陸し、爆発的な人気だった1960年代―。この時代は「衣服製造のシステムの変化」という観点から考察しても興味深い。オーダーメイド、ハンドメイドの衣服から、レディメイド(S/M/Lなどサイズ規格に準じて衣服を選ぶ)による衣服へ、オーダーメイドとレディメイドの利用割合が逆転したのが1962年だったと言われている。この時期、レディメイドの売り上げは急激に伸び、10年間で約50倍となったそうだ。この自分の身体に合わせて衣服をしつらえるオーダーメイドから、レディメイド(日本ではサイズは S/M/L が普通。)規格に自分の身体を当てはめるという変化が起きた時代―正にその時期に、日本でもバービー旋風が起こり、少女たちはバービー人形を欲しがった。そして同時代、世の女性たちは、サイズ規格に合わせて、自分の体型を意識するようになっていく。
 ニューヨーク線担当便の最終のフライトで、五番街の「FAO・シュワルツ」で、バービー人形を記念に一体購入した。私が数多くのバービー人形の中から、日本に連れて帰ったバービー人形は、華麗でもなく、高価でもなく、幼い少女の私が、バービー人形の代わりに大切にしていた、淡い水色のカクテルドレスのタミー人形によく似た、シンプルなドレスを纏い、優しい笑顔を浮かべているバービー人形だった。(注:タミーはバービーとほぼ同時期、1962年アメリカ・アイデアル社から発売され、1966年まで製造された着せ替え人形である。)
 淡い水色のドレスを着たバービーっぽくないその人形は、購入後20余年経過した今も、毎朝、私の部屋の机の上で微笑み続けている。

バービー人形.jpg



「人生、思い出のゴルフ場!? 」   
 若井泰樹


●太平洋クラブ 御殿場コース 
今から40年ほど前の秋 (「太平洋マスターズ」ゴルフトーナメント開催時)妻(当時彼女!)と2人で男子プロゴルフトーナメントを上記ゴルフ場へ観戦に。 (後日談で、彼女はゴルフに全然興味無く、渋々お付き合いで!?)何番ホールかで、2人はセカンド地点で、ギャラリーとして立って観戦していた。そこへ、当時トッププロの(世界の!)青木功の放ったティーショットのボールがなんと我々のいる方向へ飛んできた!!
私は、とっさに彼女を押し倒し、その上に覆いかぶさった!すると、ボールは我々の5メートルくらい先に落ち、無事難を逃れた。彼女も、その時は、「あー怖かった!ありがとう!」くらいのコメントであったが、その後しばらく経って、私がプロポーズをした際の返しのコメントで、「ゴルフ場でとっさにあなたが私の上に覆いかぶさってくれた時、この人ならきっと一生自分を大切に守ってくれるって、強く感じたの」とカミングアウトしてくれました・・・
私は、今でも、あの時青木功プロが、たまたま大ミスショットして、我々ギャラリーの中へボールを打ち込んでくれた!!ことに、たいへん感謝しております(笑)

                      
            
posted by ライフプロデュース研事務担当 at 15:00| Comment(0) | 日記
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