2021年07月03日

VIVA活き活きと輝く素敵な80代シリーズ file 4 ケ・セラ・セラで人生80余年

シニア社会学会 前事務局長 Mushaさん
 
「Viva!活き活きと輝く素敵な80代」シリーズ、事情があって、間が空いてしまいましたが、本日、「東京オリンピック2020」開幕の日、File4 更新しました。
今回は、前回の東京オリンピックが開催された1964年に、外資系下着メーカー「トリンプ」入社、キャリアを積み重ねられた、外資系キャリアウーマンの先駆者 武者 忠子さん(愛称:Mushaさん)へのインタビューです。

◇プロフィール◇
武者 忠子さん(愛称:Mushaさん)
仙台出身。
昭和13年(1938年)生まれの寅年。
幼少より、洋裁の先生になるのが夢だった。
高校時代は、バトミントンの選手でインターハイに出場。
宮城ドレスメーカー女学院の洋裁教師として5年間勤務した後、
日本上陸まもない、創成期トリンプ インターナショナル ジャパン入社。
販売員、教育担当、商品企画開発部部長を経て広報室長へ。定年後も、顧問として65歳まで勤務。
シニア社会学会、前事務局長。

武者さん 近影.JPG

1.ご出身は仙台ということですが、どんな子ども時代を過ごされたのですか。
一歳半で母方、祖母の実家、武者家の養女となり、代々続いた19代目を継ぐこととなったの。戸籍上はそうでも、実生活では実の両親ときょうだいたちと生活していた。父が、アメリカ帰りの技術者、帰国後は東北大工学部の教授、母はミッションスクール出身だったので、ジェンダーレス、「高校を卒業したら、子どもたちの人生の選択は子どもたち自身に委ねる」という教育方針、洋風な感覚を持った家庭環境だったわね。

2.トリンプで働くことになった経緯についてお話しいただけますか。
洋裁の先生になりたくて、高校の制服も自分で作ったくらい。社会人として初めての仕事は、夢が叶って宮城ドレスメーカー女学院で、洋裁の教師をしていた。5年間、様々なタイプの教え子たちを卒業させた。この5年間の経験でその後の私のキャリアの基本が培われたと言っても過言ではないわね。色んなタイプの教え子に対して、その子の状況に応じて、製図を直したり、仮縫いをやり直したり、個々の能力に合わせてどこで一線を引いて「良し!」とするか、悪戦苦闘した5年間だったわ。でも、卒業式に教え子たちが自分で何とか仕上げたツーピースを着て、私自身も自分で作った服を着てセンターに座って記念写真を撮影するその時の達成感は格別だったわね。でも、5年間でもう十分だと思った。その後、上京することになり、ご縁があって、東京オリンピックの年(1964年)に日本上陸したばかりで店舗もまだない、トリンプに勤めることとなった。

3.トリンプではどんなキャリアを積まれたのですか。
Mushaさん:採用されてから、最初は、私の宮城ドレスメーカー女学院で培った経験が認められ、ホテルオークラのファッションショーの仮縫いやフィッティング。ドイツ語で色々言われ、チンプンカンプンだったけど、言葉違えど、やること一緒だからね。その後、三越本店で立派なコーナーを貰って、下着売り場のコンサルタントを任された。

Hana:下着コンサルタントのパイオニアだったんですね。

Mushaさん:そぅそぅ。その後、伊勢丹でも下着のコンサルタントを任された。以後、社内外の教育担当として、取引先の企業に出向いたり、テレビで下着の話をしたり。

Hana:Mushaさんの言葉で女性にとって下着の役割とは?

Mushaさん:無理なく、自分らしい体形のバランスを整えることを手助けするツールかな。はみ出た肉を補正したり、着用した自分の身体をいろんな角度から眺めたりする習慣をつける、そうした、日々の小さな努力を安心、安全に続けられる。だから、小さいサイズを選んで苦しくても、大きいサイズを選んで楽過ぎてもだめなのよね。下着で形を作るのではなく、その人らしいバランスを整える。

Hana:なるほど、宮城ドレスメーカー女学院での洋裁の先生のキャリアが活かされてますね。それからは?

Mushaさん:その後、商品企画開発部の部長となり、そのあとは、広報室長になった。私は、在職中、振り返ると4人の社長と関わったのだけど、特に広報室にいたときは、マス媒体への発表内容の精査がとても役に立ったわね。それと、3年は我慢しよう、3年経つと、仕事が面白くなってきて、次は10年を目指すようになった、「自分のやりたいようにやろう!」「私という人間がこの会社に必要な存在になろう!」って思っていたわね。

4.当時の外資系企業って、ジェンダーや性差はどうだったんですか?
Mushaさん:女性の下着を商品とする企業だから、女性が優位であることはさておいて、若い会社で半外資系、女性がゲストにお茶を出すという感覚はなくー。そもそも、1980年代、90年代、トリンプは、レセプションルームがショールームを兼ねていたので、訪れたゲストは、レセプションルームから自分で用事のある部署に電話を掛ける。何か飲みたかったら、ドリンクサーバーから自分で入れるシステムだった。また、コピーは部下にとらせず、自分でコピーするのが常識だったわ。

Hana:当時の日本企業と比較すると全く違うシステムですね。「ライフプロデュース」研究会メンバー(60代男性)よりの質問があって,今後、真の「ジェンダー平等社会」を実現するために、日本の男性陣が意識して修正しなくてはならないことはございますか。

Mushaさん: んーー、やはり日本の企業では、ボスが変わらないとダメよね。外資系企業では、徹底的な、レディー・ファースト。エレベーターの乗降でも、日本の企業では、社長と乗り合わせると社長を意識するけど、外資ではそれはあり得ない。如何なる状況でもレディー・ファーストが徹底している。しかし、女性もそれに甘えてはダメ。日本の女性は、やんわり男性に行動変容させるような工夫が日々の日常でも必要なのではないかなぁー。現在は、男女に関わらず、仕事の成果で評価するようになったのでは.....。

Hana: 地元図書館などでも、エレベーターで、我先にと降りたがる、明らかにリタイアしたおじさまたちを見ると、心底がっかりしております。彼らは現役時代は日本の高度成長期を支えた企業戦士だったと推察しますが.....。

5.シニア社会学会の生みの親である <あどりぶ 倶楽部>は、企業の広報担当者たちの集まりだったと聞いておりますが....。
「シニア社会学会」が設立されたのは2001年、アメリカのAARP(American Association of Retired Person)の活動を目標としていた。元々、「アドリブ倶楽部」は当時、企業の広報、宣伝に携わっていた男性たちの「異業種交流会」だったの。そのメンバーだった、ワイン販売会社のKさんと知り合い、ゴルフ仲間だったこともあり、彼の同伴者の一人として、私自身も、「アドリブ倶楽部」の非会員だけど居て当たり前の存在になっていったわね。その流れで、「シニア社会学会」設立の準備にも関わることになった。とは言っても、「シニア社会学会」自体は、正直、私の歩んできた道とは違うし、声を掛けられなかったら関わらなかったと思うけど、私は「研究」には合わない性分だし。でも、「門前の小僧習わぬ経を読む」って諺もあるからね。事務局のお手伝いだったら出来るかなと思ったのよね、当時は。

6.現在、学会では、学会誌「エイジレスフォーラム」の編集を統括されておられますが、大変な作業ですよね。
Mushaさん:記事投稿者は勿論、業者との交渉も含めて、半年は掛かるわね。でも、私は待っているより、自分でやってしまったほうが、独りで「シャシャシャ!これでどうですか?」っていう方が得意なのよね。

Hana:半年かけて「エイジレスフォーラム」が出来上がったときのお気持ちは、今回、冒頭でもお話いただいた。宮城ドレスメーカー女学院時代の、教え子たちがツーピースを一年かけて仕上げたときのお気持ちのエピソードに通じるものがあるのでは?

Mushaさん:それとはちょっと違うけど、形となり完成した時の気持ち、ホッとするのと、頑張ったなぁ〜の気持ちかしら。

Hana:わかるなぁ〜、そのお気持ち、とても共感致します。

7. ところでMushaさん、現役時代、2匹の猫と生活されておられたってことですが。二匹の名前は?
Mushaさん:チャコとポンタ。雄のポンタは15歳、メスのチャコは18歳まで生きた。二匹とも結構長生きしたわよね。室内だけで飼っていたので、見知らぬ人には威嚇する番犬ならず番猫だったわね。二匹は野良猫が産んだ子たちだったので、亡くなった時は、天国で母猫と会えるように合同供養にしてもらったの。

Hana:何か、2匹のきょうだい猫と暮らしていたMushaさん、仲良くリラックスしているチャコとポンタのお写真、微笑ましいですね。Mushaさんが一気に身近な存在に思えてきます。

武者さん 猫二匹.jpg

8. 60歳で定年を迎えられ、その後も65歳まで顧問として関わられていたとのことー、その頃のこと、お聞かせください。
Mushaさん:定年と共に、手話と着物の学校に通い始めたの。手話は身につけて役立つと思ったし、着物の学校は、「インストラクター養成講座」を選択し、4年間で准教授、教授まで進んだ。この頃の外出は全て着物だったわね。そんなこんなで、今は着物の処理に悩んでいます。

武者さん 藍染 お着物.jpg


Mushaさん:そんな変遷を経てね、今、私が挑戦しているもの、見せてあげるわ。待っててね。
(しばし、ZOOMの画面から退席されて....数分後、ZOOM画面に戻られました。)

Mushaさん:ほら!、見て! これ、手描き友禅。ここ数年、毎年、干支の作品に挑戦しているの。

Hana:えーー、素晴らしいですね。色合いが流石に上品ですね。常に新たな挑戦を続けられて、学びの情熱、尽きることなく......。

丑干支カレンダーA.JPG


9.これまでの人生振り返ってみて、いかがですか?
Mushaさん:そうねぇー。私の人生、良い人生だったと言えるわねぇー。私の場合、やりたいことを勝ち取って来たというより、「降ってきた」と言った方が良いかもね。色んな事が降ってきて繋がって行った。

Hana:でも良い機会が降ってくるには、実力がないとダメですよね。

Mushaさん:どんなときでも、ポジティブに考える、ケ・セラ・セラって生きてきたとは言えるわねぇ。

Hana:ケ・セラ・セラですか。いいですねぇ〜。Mushaさんのこれまでの人生は、時代の流れの中でスムーズにしなやかに、自分の才能を活かしてこられた、一目一目しっかりと編んでこられたと思うのですが、ご自身の人生を一枚のセーターに譬えるとするならば、どこまで編み込んでこられたと思われますか。

Mushaさん:んーーー、セーターねぇー。んーー、。。。。。
ほぼ、完成形、あとはちょこっと飾りをつけるだけかな。

Hana: ほぼ、完成形のセーターにちょこっと飾りですか。
それは、これから唯一無二、ほぼ編み上げたMushaさんのセーターにどんな飾りをつけられるのか楽しみですね。

Mushaさん:そうね、私も楽しみになってきたわ。

Hana:今日は長時間、インタビューにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

Mushaさん:いえいえ、こちらこそ私の人生振り返る良い機会だったわ。あなたもあなたらしく、今まで通りにね。いいのよ、あなたはあなたらしく、今のまんまで。

Hana: Wow!! 私にとって最高の励みになるお言葉、ありがとうございます。



【編集後記】
Hana

 Zoom越しに、2時間半、あっという間のインタビューでした。その間、Mushaさんの声艶は一貫して変わらず、明るい声音でした。

 Mushaさんがトリンプでキャリアを積み重ねておられた時代は、衣服製造が、オーダーメイド(町の仕立て屋、洋裁店で服を仕立てる方式)からレディメイド(既製服)に急速に変化していった時代です。衣服のレディメイドは1960年以降の10年間、いわゆる「高度成長期」に広く普及し、その普及の背景には、裁断から縫製による技術の向上、流通経路の確立、単なる製造業から、マーケット調査、製造、販売などを一手にこなす「アパレルメーカー」が成長していった時代で、1962年は、オーダーメードとレディメイドが逆転した年、1965年から1975年の10年間でレディメイドの売り上げが50倍と急激に伸びたとも言われています。

正にその変貌期は、女性たちがそのサイズ規格(7号 9号 11号 13号やS/M/Lなど)を通して、自分の身体がどのサイズかを知り、何サイズの下着や衣服を身に着けることが自分の理想なのかという、自らの身体のサイズを客観的に【メタ認知】するようになっていった時期とも言えるでしょう。
※メタ認知(自分で自分のことを客観的に見てコントロール)

そのような時代背景の中、外資系下着メーカー、トリンプで、ご苦労は多々あっただろうに、「ケ・セラ・セラ」と水を得た魚の様に、才能を開花させていったMushaさんのお話は、戦後の女性ファッション史と照らし合わせてみても大変興味深いお話でした。時代の潮流にしなやかに身を任せ、自分らしさを見失うことなく、キャリアを積み重ねてこられたMushaさんの半生―、更に、現役を引退され80歳を超えても尚、学びへの好奇心と情熱尽きることなく、新たなことに挑戦し続けるお姿、「本当にカッコイイ」の一言です。

Mushaさん、素敵なお話に元気戴きました。ありがとうございました。


エイジフリーに温故知新、「活き活きと素敵な80代」シリーズ これまでのインタビュー記事はコチラから















posted by ライフプロデュース研事務担当 at 15:48| Comment(0) | ブログ
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