2021年09月07日

エイジフリーに温故知新!活き活きと輝く70代80代! File No5 深く静かに攻(おさ)めるおさださん

エイジフリーに温故知新!活き活きと輝く70代80代! File No5 深く静かに攻(おさ)めるおさださん

プロフィール
長田攻一さん(愛称:おさださん)
昭和18年生まれ。77歳
東京都武蔵野市吉祥寺に長く住む。
社会学者。早稲田大学名誉教授
現シニア社会学会理事 事務局長
「災害と地域社会」研究会 座長

おさださんとは、コロナ禍前、月1回、渋谷の事務所で開催されていた「運営委員会」で帰路が同じ方向だったので、いろいろお話しながら楽しかったことを記憶しております。今回は、このシリーズ第5弾 ! 80代の方々へのインタビューが続いた、『エイジフリーに温故知新!活き活きと輝く70代80代シリーズ』では初登場!の70代です。

【子ども時代について】
Hana: おさださんの攻一さんという名前は珍しいですね。どなたがお付けになったのですか。
おさださん:父親がつけたんだけど、こどもの頃、この「攻」という字は「攻める」という意味で、そういうタイプではなくどちらかというと受け身のタイプなので、自分の名前が好きじゃなかった。この「攻」という文字には「おさめる」という意味もあるらしいんだけどね。
Hana: なるほど。「おさめる」、いいですね。おさださんの場合、「攻める」という意味合いでは、深く、静かにという感じがします。僭越で率直な感想ですが。ご出身はどちらですか?
おさださん: 生まれたのは茨城県水戸市なんだけど、一番長かったのは吉祥寺なんですよね。
Hana: お父さまも学者さんだったんですか。
おさださん:父は元々は建設省に最初いて民間に移って、その後は建設関係のサラリーマン家庭。学者はウチの家系には殆どいないです。
Hana:私にとっておさださんは、学者さんの典型的なタイプに見えるので、意外です。

【蝶々について】
Hana: Zoomでの委員会で、おさださんの背景に艶やかな蝶々が現れたときはびっくりしました。
おさださん:三歳から吉祥寺に住んでいて、当時、畑が多く蝶々も沢山いた。井の頭公園、善福寺公園に池があり、トンボや蝶々をとりにいったんですよ。生活の中に虫や蝶々と接していた感じかな。吉祥寺はイタチがでるような田舎だった。小学生時代、近所に住んでいた友人と蝶々を集め始め、その友人の家の押し入れのスペースを借りて収集していた。大学生まで蝶の標本箱沢山持っていて、小学生の時は学校に寄付したりしていた。今でも蝶を見るとすぐ名前がわかるんですよね。
Hana: 蝶の収集家の子どもだったってことですね。
おさださん:いやいや、本格的な収集家から見たら序の口ですよね。

おさださん 蝶々.jpg


【愛犬 クッキーについて】
Hana: 蝶と同様、Zoomの背景に愛犬クッキー君のお写真も飾っておられますね。
おさださん:ダックス犬のクッキーは、2017年に14歳で突然亡くなったんだけど、もっと長生きすると思ってたんだよね。前の日まで、全然、元気で…..それが急に、ぐったりと寝そべり始めて、様子がおかしいと、どうぶつ病院に連れて行って、注射を打って救急措置をしたんだけど容体回復せずにその日のうちに亡くなってしまった。前日、ぴょんぴょん跳ねて、ご飯をねだって元気だったのに.。
Hana:突然の別れって本当に辛いですよね。
おさださん:骨壺はそのまま、奥さんは今でも、毎日、祈ってますよ。もう、他の犬は絶対飼わないって言ってます。直ぐに次の犬を飼うタイプもいるよね。うちは、次の犬っていうのは、ないんですよね。
Hana: 奥様にとって、クッキー君は息子さんだったんですね。クッキー君の名付け親はご長男だということで次男坊。
おさださん:本当にそうなんですよ。
Hana:こうして話題にする、クッキー君の想い出を語るというのは一番の供養になると思います。クッキー君は、こんなにもご家族に愛されて、本当に幸せなわんこでしたね。

長田クッキー 君 合掌.jpg

【大学時代】
Hana: おさださんはどんな大学生時代をお過ごしだったんですか。

おさださん:早稲田は政治経済学部だったんだけど、政治も経済もあまり関心がなかったので、新聞学科に進みました。大学2年生になった途端に紛争が始まり、学生運動 学費値上げ闘争が激しくなって、授業はほとんど出ていないというか、授業自体が無くなってしまった。当時、構内は騒然としていた。授業は無くても試験はあるのでノート見せ合って卒業出来ちゃった。前期、外国語の科目とか落としても、夏期集中講座があったので、落第は免れたって感じです。全く授業に出ていなかったというか授業が無かったので、勉強するということに対して不完全燃焼気味だった、だから、大学院に進むことにしたという経緯があります。
さて、大学院の専攻を決めるにあたって、政治学、経済学に興味があるわけではない、でも、実質、「新聞学科」の学部生時代に「新聞学」を学問として学んだわけではなかった。大学院でマスコミを学びたいんだったら「文学部」の方が良いよとアドバイスを受け、文学研究科を受け、社会学専攻に進んだ。マスコミを勉強できると思ったから。で、選択肢がなかったんだけど、武田良三教授についた。1968年、大学院2年の時に、再び、大学内紛争が始まり、再度、大学院でも授業ができなくなったんです。
(学部生時代のおさださん)
長田先生学生時代.jpg

【大学院時代】
Hana: 正に、大学紛争の真っただ中で、学生時代を過ごされたんですね。大学院生のおさださんはどんな学生生活を送られたんですか?

おさださん:大学院2年の時に、学費値上げ闘争から、大学改革や70年安保反対運動に広がり、自分自身の反体制意識が高まり、1968年から1970年、学内デモや安保の反対運動に参加した。
学生運動に参加しながら、並行して、全く授業が出来ない中で勉強もしたいなぁと思い、大学院生仲間と共に社会学の1冊の本を翻訳して、すでに退職していた武田良三教授に監訳者になってもらい、出版まで漕ぎつけた。学内は革マル派の勢いが凄く、民青の学生たちを追い出したり、角棒で殴りつけたり、その中庭の様子が教室から見えた。そういう殺伐とした状況の中で、学内当局そのものへの糾弾もする動きになって……。

Hana: え?おさださんご自身もですか? なんか、穏やかなおさださんと過激な学生運動、イメージ結びつかないですねぇー。いずれにしても、このお話って、早稲田の学生運動最中の生き証人のお話なんですよね….。

おさださん:そうですね。だから、学部生、院生、教員時代を含めると、かなり長い年月、早稲田にいた訳だけど、早稲田に愛着はあまりない。当時、体制に対する反発心はあった。学部の卒業証書も卒業式に出席しなかったのでだいぶ後になってから事務所で受け取った。自分が早稲田の教員になることも考えておらず、なったのは想定外。機会に恵まれて、つまり前任者が定年で退職されポストが空いて、そこに推薦していただいたという流れ、1977年のこと。当時、直ぐ上の世代が10歳ほど離れていて、これで自分が教員していいのかという感じだった。

Hana:そういうチャンスと出会いに恵まれるのも実力の一つではないでしょうか。私は1978年に大学卒業したので、おさださんが早稲田の大学院の教員になられた頃、私は立教大学の4年生、時代が一緒ですね。
院生にとって、年齢の近い当時のおさださんは、「お兄さん」という感じだったかもしれませんね。新人の大学教員としてのおさださんはどんな感じだったんですか?

(教員時代のおさださん 1985年頃、教務室で。)

長田先生教員時代.jpg

おさださん:教員と教職員組合の活動の両輪で忙しかった。1978年頃、教員としては、第一文学部と夜間の第二文学部 社会科学部併せて週、ゼミと授業9コマを受け持っていた。早朝08:20から夜10:00までずぅーっと。授業の準備が十分できていないままのこともあった。学生たちも不満もあっただろうが、不思議ですよね、その当時のゼミの学生たちとの交流が今も続いているんですよ。今、彼らは50代だけど。
一方、教職員組合の活動では、いつの間にか、私は、給与対策担当になっていて、デモだけではなくストをやろう!という流れになって、当時は夜中の1時ごろまで議論。端から見たら破天荒?僕はそういうタイプでは全くないのにそういうことをやってきているんですよねぇー。

Hana:いかにも反体制側、というタイプを微塵も感じさせずに、反体制側の立ち位置で立ち振る舞うには、おさださんみたいな「静」の佇まいのある方が最適人者だったのでは?

おさださん:いや、少し微妙でね。どちらの立場にも気持ちの中では共感と対立が同居していたんですよ。大学っていうのは面白い構図になっていて、学部には教授会があるので、理事会に従わないこともある。「狎れあい」って言ったら語弊があるけど面白い構図がある。職員と教員も共闘はするけど、微妙な関係。教授会と職員の関係でも、職員は、「言いたいことを言って!」と教員に対して反感を持っている人は大勢いる。が、支え合っている面もあるから。私が学生担当の教務をやっていたとき、革マル派の学生に糾弾を受けていた集会にゼミの学生が私の応援に来てくれたりしたこともあります。
組合は日本では企業の中に組合があるけど、欧米では労働者は会社を超えた横の繋がりがある。大学では相互に依存し合いながら対立しつつ、教授会の決定には従わなければならない状況の中で運営されている、持ちつ持たれつの世界。

Hana:ふぅーん。複雑ですね。大学という組織で教職員組合の立ち位置は、企業内での組合のそれとは少し違うかもしれませんね。
ところで、長田ゼミを巣立った学生さんたちはどんな職業に就いたのですか。

おさださん:初期のころは30名中、女性は4名と少なかったなぁ。職種で言うとマスコミ関係は結構いた。朝日新聞、北海道新聞、沖縄タイムスの記者、裁判所関係の仕事、家裁の調停員、実家の商売を継いだり、温泉宿の女将もいたな。面白いのは、ゼミ内で結婚し、そのお子さんが、第2文学部(夜間)の私のゼミに入ってきたというケースもあったんですよ。

Hana: 二代続いて、同じ教授のゼミにって素敵なエピソードですね。

おさださん:そうなんですよ。教え子である親御さんが入れたくてもなかなか合格に至らないケースもあるからね。コロナ前まで、同窓会が続いているゼミが3つ位あって、幾つか訃報も届いている。最近では音楽関係の専門誌の編集長だった独り暮らしの男性の突然死、また、夜間の社会科学部の卒業生で、接骨院経営者の訃報も届いた。まだ50代なのに。
僕は卒業時には、「結婚、子供ができたり、仕事が変わったり、節目、節目の時には連絡を取り合おうよ。」と卒業生を送り出していたのだけれど、卒業した後も情報を得ると嬉しい。今年も、聴覚障碍者でNHKの職員になった卒業生から、退職してから障碍者ための講座を持つようになったという連絡がありました。

Hana: おさださんの優しいお人柄所以ですね。早稲田の学生の特徴とか校風ってありますか。

おさださん:彼らを、早稲田の学生、早稲田の校風や早稲田カラーで捉えたことはないなぁー。その人の特徴で記憶しているから。

Hana:おさださんは、とても間口の広い、ニュートラルな方なので学生たちはゼミが居心地よかったのでは。ゼミ生の皆さんとの思い出で、何かご紹介いただけますか。

おさださん:ゼミで調査は必修だったんで、同じ地域を続けて調査するんですよ。私のゼミの場合は、住んでいた日高市に近い、秩父市、秩父郡小鹿野町で調査をしました。各家を訪れて、家族の話を聴く。夏祭りに参加したり、地域との繋がりについて、現地の方々とどう繋がって行くかー。学生たちは、最初は違和感があるようだが、だんだん、馴染んでくる。学部生時代から院生までずぅーっと私のゼミにいた男性がいて、彼は一時、裁判所に勤めた後に大学院に戻ってきた。彼が、夏の合宿に、ゼミ生たちと地域の皆さんの交流をサポートしてくれたんですよ。

Hana: その方はゼミ合宿での調査ではコーチ役を担われたんですね。ゼミ生たちはさぞ心強かったでしょうね。

おさださん:そのうち、ゼミに女子学生が増えて来たんですよ。どうも、その当時、社会学を学んだ女子学生の就職率が高いらしくって。で、地域の調査に女子大生を連れていくと、田舎だから、跡継ぎの長男だけが独身で残っていて、声かけられて、言い寄られて、閉口して困っていたケースを、思い出しましたよ。。。そういうこともあったなぁと。残念ながら、このパターンは実現したことないんですけれどもね。

Hana: ははっ、大いにあり得るシチュエーションですね。あ、時間も大分、予定をオーバーしていて申し訳ありません。

Hana:おさださんは、昭和18年生まれの77歳、シニア社会学会では、事務局長であられますが、運営委員会、長期検討委員会、「災害と地域社会」研究会 座長 他、学会運営の為にご自身の時間とエネルギーを注入され、凄いなぁーと敬服しておりますが、おさださんにとって「シニア社会学会」とは、どんな存在ですか?

おさださん:そうですね。一つの居場所になっていることは事実ですね。メンバーが都会的な意味合いでのつきあいで、距離感保ちそれぞれと上手くつきあっている。

Hana: そうですね。同感です。距離感保って群れないし、孤高の人財の集まりのところが心地よいです。「灯台下暗し」にならないようにちゃんと足元も見ながら、社会全体も見渡している方々の集まりっていうのがスゴいと思います。事務局長のお立場で、今後のビジョンはどうお考えになっておられるのですか。お話しできる範囲でお願いいたします。

おさださん:少々息切れしているんですよね。同様の事を、他の人に引き継がせるのは難しいと思っています。これから担ってくれる人には条件を提示して担ってもらわないと……。今のままで続けていくことは難しい。現在、学会運営で支えてくれる方々はいて、袖井会長ご自身がとてもエネルギッシュに動いてくださるので、普通の学会は、そうはいかない。これまでのやり方は、このメンバーが最後になる気持ちでやっているけど、今後はそうはいかない、力の分散が必要と感じていますね。

Hana: ざっくばらん、率直なお気持ちありがとうございます。

最後に、「ライフプロデュース」研究会へのメッセージをお願いいたします。

おさださん:我々の時代とは一味ちがう、学会の在り方をイメージできるような研究会に発展していって欲しいと願ってます。新しいカラーを生み出すような研究会―…..。

Hana:おさださんのメッセージ、シカと承りました。「一味違う、新しいカラーを生み出すような研究会」目指します!今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。


【インタビューを終えてから、素敵な写真が届きました黄ハート
インタビューを終えてから、おさださんより素敵な写真が届きました。

↓の写真は、2014年、ゼミ論集をDVDにして学生たちに配った時の、ジャケットとDVDだそうです。おさださんの細やかさとセンスの良さに脱帽!ですね。素敵です!

長田ゼミ イラスト.jpg


長田ゼミ 花束贈呈.jpg


おさださんに「人生のモットーとか座右の銘は?」とお尋ねしたところ、「そういうものはないんですよ。特にー。」だそうです。拍子抜けしてしまいましたが、おさださんらしいなとも思います。
教員になりたての頃、学生たちにとっては「優しいお兄さんタイプ」だったであろう、おさださん。そのもの静かで優しい雰囲気と佇まいは、時代背景は変わったけれども「シニア社会学会」では、何でもいいやすい(あ、かなり僭越MAX!なことを言っても、いつも温和ににこにこされてます。)お兄さんタイプですね。
そんなおさださんを漢字で現すとしたら【薫陶】という二文字でしょうか。これからもおさださんの薫陶を受けて、【ミクロとマクロの視点】(コレ、おさださんが良く使います。)で世の中の眺め方を鍛えていかなくては!と心に刻みました。

おさださん、今回は、奥様を喫茶店にお待たせしたまま、お昼時までの長時間、インタビューにお付き合いいただきましてありがとうございました。

   


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2021年08月25日

女60歳還暦を迎えて 言いたい放題 やりたい放題 <その5>

私のトホホなダイエット談


by ジェシカ


今回は私の【私のトホホなダイエット談】を書かせて頂こうと思う。
現在私は163センチ・55.0キロである。この数値が10代・20代の私であったら個人的には許容範囲である。よってここでダイエットテーマでエッセイを書かせて頂いていることはなかったことだろう。しかし 60代を迎えると話しはちょっと変わってくるのである。ダイエットのきっかけは 近くに住んでいる息子が新型コロナの影響でほぼほぼリモートワークとなり夕食を実家で食べる機会が増えたことによる。

何故?と思われる方もいらっしゃると思うので その経緯を簡単にご説明しようと思う。息子は非常にストイックなタイプで日常に運動(ランニング・gym等)を普通に取り入れていた。しかしリモートワークはじわじわと彼の体重増加をもたらしてしまったようなのである。彼の中の自分に対するイメージの許容範囲をオーバーしたのだろう。そこである日息子から「すいませんが、これから野菜中心の食事にしてもらえますか?夕飯はおかず中心にしてもらえたら嬉しいんですけど」という希望依頼を受けたのである。我が家には93歳の母も同居なので丁度いいかなと思い「うん分かった」と答え、それからは頭の中で野菜・野菜・野菜と呪文のように考えながらメニューを考えるようになった。野菜中でも肉・魚(タンパク質)は十分に加えたメニューを心掛けたつもりである。すると一緒のものを食べている母も私も体重はスルスルと落ちていった。「嬉しい この年でもこんなに楽にダイエットって出来るのねえ」とかへらへらしていたある日 私はなんと私の二の腕はハリがなくなり シワシワっとしているのをこの夏に発見してしまったのである。夏にノースリーブのシャツを着て ちょっとしたおしゃれな気分を味わえると楽しみにしていたのに・・・・。「なんで〜?なんでこうなっちゃったの?」と心の中で叫んでしまった。今までの私は痩せてはいないが こんなにしわはなかったはずなのに・・・。しかし同じ食事をとっている目の前の息子は 当たり前だが筋肉質でパンパンに張った二の腕をしている。この大きな結果の差・痛いダイエットの敗因は?と色々考えてみた。しかしどう考えてもその敗因は運動の欠如に起因すると思われる。勿論年齢的な要因もあることは事実としても ダイエット前にはこのシワシワはなかったのだから。それに比べて息子は確かに殆ど毎晩ランシングと筋トレをしていたことを思い出したのである。私は慌ててYOUTUBEをチェックし ヨガ・ストレッチを日常に組み入れることにした。夜だと疲れてどうしても続かないので 朝30分をルーティンとして組み入れたのである。このシワシワを無くすためにまた太るのは 何だかもったいないようにも感じる・・・。
勿論私も分かっているのである。この年になってシワが増えようが減ろうが誰も気にしてなんかいないということを。しかし 毎日目にする私が気になるのだから,それなりの対処は必要だと考えたのである。それ以来日々の生活に運動を取り入れ筋肉をつけていくという地道な作戦を実行している。きっとこの地道な運動が将来の私の健康を支えてくれるのだと信じて。

 10代 20代のあの頃の躍動感溢れる肉体は遥か彼方ではある。しかし自分の身体・心にこれからはもっと注意を払い 優しく、時には厳しく整えていこうと強く感じた夏の日の出来事だったのです。 健康診断結果でコルステロールが高いだのなんだと色々注意(イエローカード)が出たとしても 皆様 よ〜く考えてからダイエットをお始め下さいませ。痩せて シワシワは結構辛いです。「鏡よ 鏡よ 鏡さん この家で笑顔が一番美しいのはだ〜れ?」「 はい それは貴方様です」と思える自分でいたいといつも思っています。今回も最後までお読み頂き有難うございました。

女60歳還暦を迎えて 言いたい放題 やりたい放題 シリーズ、
アーカイブはコチラから。


眞子さん トレーニンググッズ.jpg

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2021年07月03日

VIVA活き活きと輝く素敵な80代シリーズ file 4 ケ・セラ・セラで人生80余年

シニア社会学会 前事務局長 Mushaさん
 
「Viva!活き活きと輝く素敵な80代」シリーズ、事情があって、間が空いてしまいましたが、本日、「東京オリンピック2020」開幕の日、File4 更新しました。
今回は、前回の東京オリンピックが開催された1964年に、外資系下着メーカー「トリンプ」入社、キャリアを積み重ねられた、外資系キャリアウーマンの先駆者 武者 忠子さん(愛称:Mushaさん)へのインタビューです。

◇プロフィール◇
武者 忠子さん(愛称:Mushaさん)
仙台出身。
昭和13年(1938年)生まれの寅年。
幼少より、洋裁の先生になるのが夢だった。
高校時代は、バトミントンの選手でインターハイに出場。
宮城ドレスメーカー女学院の洋裁教師として5年間勤務した後、
日本上陸まもない、創成期トリンプ インターナショナル ジャパン入社。
販売員、教育担当、商品企画開発部部長を経て広報室長へ。定年後も、顧問として65歳まで勤務。
シニア社会学会、前事務局長。

武者さん 近影.JPG

1.ご出身は仙台ということですが、どんな子ども時代を過ごされたのですか。
一歳半で母方、祖母の実家、武者家の養女となり、代々続いた19代目を継ぐこととなったの。戸籍上はそうでも、実生活では実の両親ときょうだいたちと生活していた。父が、アメリカ帰りの技術者、帰国後は東北大工学部の教授、母はミッションスクール出身だったので、ジェンダーレス、「高校を卒業したら、子どもたちの人生の選択は子どもたち自身に委ねる」という教育方針、洋風な感覚を持った家庭環境だったわね。

2.トリンプで働くことになった経緯についてお話しいただけますか。
洋裁の先生になりたくて、高校の制服も自分で作ったくらい。社会人として初めての仕事は、夢が叶って宮城ドレスメーカー女学院で、洋裁の教師をしていた。5年間、様々なタイプの教え子たちを卒業させた。この5年間の経験でその後の私のキャリアの基本が培われたと言っても過言ではないわね。色んなタイプの教え子に対して、その子の状況に応じて、製図を直したり、仮縫いをやり直したり、個々の能力に合わせてどこで一線を引いて「良し!」とするか、悪戦苦闘した5年間だったわ。でも、卒業式に教え子たちが自分で何とか仕上げたツーピースを着て、私自身も自分で作った服を着てセンターに座って記念写真を撮影するその時の達成感は格別だったわね。でも、5年間でもう十分だと思った。その後、上京することになり、ご縁があって、東京オリンピックの年(1964年)に日本上陸したばかりで店舗もまだない、トリンプに勤めることとなった。

3.トリンプではどんなキャリアを積まれたのですか。
Mushaさん:採用されてから、最初は、私の宮城ドレスメーカー女学院で培った経験が認められ、ホテルオークラのファッションショーの仮縫いやフィッティング。ドイツ語で色々言われ、チンプンカンプンだったけど、言葉違えど、やること一緒だからね。その後、三越本店で立派なコーナーを貰って、下着売り場のコンサルタントを任された。

Hana:下着コンサルタントのパイオニアだったんですね。

Mushaさん:そぅそぅ。その後、伊勢丹でも下着のコンサルタントを任された。以後、社内外の教育担当として、取引先の企業に出向いたり、テレビで下着の話をしたり。

Hana:Mushaさんの言葉で女性にとって下着の役割とは?

Mushaさん:無理なく、自分らしい体形のバランスを整えることを手助けするツールかな。はみ出た肉を補正したり、着用した自分の身体をいろんな角度から眺めたりする習慣をつける、そうした、日々の小さな努力を安心、安全に続けられる。だから、小さいサイズを選んで苦しくても、大きいサイズを選んで楽過ぎてもだめなのよね。下着で形を作るのではなく、その人らしいバランスを整える。

Hana:なるほど、宮城ドレスメーカー女学院での洋裁の先生のキャリアが活かされてますね。それからは?

Mushaさん:その後、商品企画開発部の部長となり、そのあとは、広報室長になった。私は、在職中、振り返ると4人の社長と関わったのだけど、特に広報室にいたときは、マス媒体への発表内容の精査がとても役に立ったわね。それと、3年は我慢しよう、3年経つと、仕事が面白くなってきて、次は10年を目指すようになった、「自分のやりたいようにやろう!」「私という人間がこの会社に必要な存在になろう!」って思っていたわね。

4.当時の外資系企業って、ジェンダーや性差はどうだったんですか?
Mushaさん:女性の下着を商品とする企業だから、女性が優位であることはさておいて、若い会社で半外資系、女性がゲストにお茶を出すという感覚はなくー。そもそも、1980年代、90年代、トリンプは、レセプションルームがショールームを兼ねていたので、訪れたゲストは、レセプションルームから自分で用事のある部署に電話を掛ける。何か飲みたかったら、ドリンクサーバーから自分で入れるシステムだった。また、コピーは部下にとらせず、自分でコピーするのが常識だったわ。

Hana:当時の日本企業と比較すると全く違うシステムですね。「ライフプロデュース」研究会メンバー(60代男性)よりの質問があって,今後、真の「ジェンダー平等社会」を実現するために、日本の男性陣が意識して修正しなくてはならないことはございますか。

Mushaさん: んーー、やはり日本の企業では、ボスが変わらないとダメよね。外資系企業では、徹底的な、レディー・ファースト。エレベーターの乗降でも、日本の企業では、社長と乗り合わせると社長を意識するけど、外資ではそれはあり得ない。如何なる状況でもレディー・ファーストが徹底している。しかし、女性もそれに甘えてはダメ。日本の女性は、やんわり男性に行動変容させるような工夫が日々の日常でも必要なのではないかなぁー。現在は、男女に関わらず、仕事の成果で評価するようになったのでは.....。

Hana: 地元図書館などでも、エレベーターで、我先にと降りたがる、明らかにリタイアしたおじさまたちを見ると、心底がっかりしております。彼らは現役時代は日本の高度成長期を支えた企業戦士だったと推察しますが.....。

5.シニア社会学会の生みの親である <あどりぶ 倶楽部>は、企業の広報担当者たちの集まりだったと聞いておりますが....。
「シニア社会学会」が設立されたのは2001年、アメリカのAARP(American Association of Retired Person)の活動を目標としていた。元々、「アドリブ倶楽部」は当時、企業の広報、宣伝に携わっていた男性たちの「異業種交流会」だったの。そのメンバーだった、ワイン販売会社のKさんと知り合い、ゴルフ仲間だったこともあり、彼の同伴者の一人として、私自身も、「アドリブ倶楽部」の非会員だけど居て当たり前の存在になっていったわね。その流れで、「シニア社会学会」設立の準備にも関わることになった。とは言っても、「シニア社会学会」自体は、正直、私の歩んできた道とは違うし、声を掛けられなかったら関わらなかったと思うけど、私は「研究」には合わない性分だし。でも、「門前の小僧習わぬ経を読む」って諺もあるからね。事務局のお手伝いだったら出来るかなと思ったのよね、当時は。

6.現在、学会では、学会誌「エイジレスフォーラム」の編集を統括されておられますが、大変な作業ですよね。
Mushaさん:記事投稿者は勿論、業者との交渉も含めて、半年は掛かるわね。でも、私は待っているより、自分でやってしまったほうが、独りで「シャシャシャ!これでどうですか?」っていう方が得意なのよね。

Hana:半年かけて「エイジレスフォーラム」が出来上がったときのお気持ちは、今回、冒頭でもお話いただいた。宮城ドレスメーカー女学院時代の、教え子たちがツーピースを一年かけて仕上げたときのお気持ちのエピソードに通じるものがあるのでは?

Mushaさん:それとはちょっと違うけど、形となり完成した時の気持ち、ホッとするのと、頑張ったなぁ〜の気持ちかしら。

Hana:わかるなぁ〜、そのお気持ち、とても共感致します。

7. ところでMushaさん、現役時代、2匹の猫と生活されておられたってことですが。二匹の名前は?
Mushaさん:チャコとポンタ。雄のポンタは15歳、メスのチャコは18歳まで生きた。二匹とも結構長生きしたわよね。室内だけで飼っていたので、見知らぬ人には威嚇する番犬ならず番猫だったわね。二匹は野良猫が産んだ子たちだったので、亡くなった時は、天国で母猫と会えるように合同供養にしてもらったの。

Hana:何か、2匹のきょうだい猫と暮らしていたMushaさん、仲良くリラックスしているチャコとポンタのお写真、微笑ましいですね。Mushaさんが一気に身近な存在に思えてきます。

武者さん 猫二匹.jpg

8. 60歳で定年を迎えられ、その後も65歳まで顧問として関わられていたとのことー、その頃のこと、お聞かせください。
Mushaさん:定年と共に、手話と着物の学校に通い始めたの。手話は身につけて役立つと思ったし、着物の学校は、「インストラクター養成講座」を選択し、4年間で准教授、教授まで進んだ。この頃の外出は全て着物だったわね。そんなこんなで、今は着物の処理に悩んでいます。

武者さん 藍染 お着物.jpg


Mushaさん:そんな変遷を経てね、今、私が挑戦しているもの、見せてあげるわ。待っててね。
(しばし、ZOOMの画面から退席されて....数分後、ZOOM画面に戻られました。)

Mushaさん:ほら!、見て! これ、手描き友禅。ここ数年、毎年、干支の作品に挑戦しているの。

Hana:えーー、素晴らしいですね。色合いが流石に上品ですね。常に新たな挑戦を続けられて、学びの情熱、尽きることなく......。

丑干支カレンダーA.JPG


9.これまでの人生振り返ってみて、いかがですか?
Mushaさん:そうねぇー。私の人生、良い人生だったと言えるわねぇー。私の場合、やりたいことを勝ち取って来たというより、「降ってきた」と言った方が良いかもね。色んな事が降ってきて繋がって行った。

Hana:でも良い機会が降ってくるには、実力がないとダメですよね。

Mushaさん:どんなときでも、ポジティブに考える、ケ・セラ・セラって生きてきたとは言えるわねぇ。

Hana:ケ・セラ・セラですか。いいですねぇ〜。Mushaさんのこれまでの人生は、時代の流れの中でスムーズにしなやかに、自分の才能を活かしてこられた、一目一目しっかりと編んでこられたと思うのですが、ご自身の人生を一枚のセーターに譬えるとするならば、どこまで編み込んでこられたと思われますか。

Mushaさん:んーーー、セーターねぇー。んーー、。。。。。
ほぼ、完成形、あとはちょこっと飾りをつけるだけかな。

Hana: ほぼ、完成形のセーターにちょこっと飾りですか。
それは、これから唯一無二、ほぼ編み上げたMushaさんのセーターにどんな飾りをつけられるのか楽しみですね。

Mushaさん:そうね、私も楽しみになってきたわ。

Hana:今日は長時間、インタビューにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

Mushaさん:いえいえ、こちらこそ私の人生振り返る良い機会だったわ。あなたもあなたらしく、今まで通りにね。いいのよ、あなたはあなたらしく、今のまんまで。

Hana: Wow!! 私にとって最高の励みになるお言葉、ありがとうございます。



【編集後記】
Hana

 Zoom越しに、2時間半、あっという間のインタビューでした。その間、Mushaさんの声艶は一貫して変わらず、明るい声音でした。

 Mushaさんがトリンプでキャリアを積み重ねておられた時代は、衣服製造が、オーダーメイド(町の仕立て屋、洋裁店で服を仕立てる方式)からレディメイド(既製服)に急速に変化していった時代です。衣服のレディメイドは1960年以降の10年間、いわゆる「高度成長期」に広く普及し、その普及の背景には、裁断から縫製による技術の向上、流通経路の確立、単なる製造業から、マーケット調査、製造、販売などを一手にこなす「アパレルメーカー」が成長していった時代で、1962年は、オーダーメードとレディメイドが逆転した年、1965年から1975年の10年間でレディメイドの売り上げが50倍と急激に伸びたとも言われています。

正にその変貌期は、女性たちがそのサイズ規格(7号 9号 11号 13号やS/M/Lなど)を通して、自分の身体がどのサイズかを知り、何サイズの下着や衣服を身に着けることが自分の理想なのかという、自らの身体のサイズを客観的に【メタ認知】するようになっていった時期とも言えるでしょう。
※メタ認知(自分で自分のことを客観的に見てコントロール)

そのような時代背景の中、外資系下着メーカー、トリンプで、ご苦労は多々あっただろうに、「ケ・セラ・セラ」と水を得た魚の様に、才能を開花させていったMushaさんのお話は、戦後の女性ファッション史と照らし合わせてみても大変興味深いお話でした。時代の潮流にしなやかに身を任せ、自分らしさを見失うことなく、キャリアを積み重ねてこられたMushaさんの半生―、更に、現役を引退され80歳を超えても尚、学びへの好奇心と情熱尽きることなく、新たなことに挑戦し続けるお姿、「本当にカッコイイ」の一言です。

Mushaさん、素敵なお話に元気戴きました。ありがとうございました。


エイジフリーに温故知新、「活き活きと素敵な80代」シリーズ これまでのインタビュー記事はコチラから















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